初代白雲(甚太郎)

七百十日と呼ばれるまでに
伝統技術に打ち込む。

明治から大正にかけて、住宅欄間への道を切り開いた初代大島五雲の工房に13歳で入門。
生まれつき気性が激しい上に竹を割ったような性格で、酒は一滴も飲まなかったという初代。
ノミを持ってから2年ほどでめきめき腕を上げ、当時の年季明け(8年)の頃には欄間のスペシャリストともいえる五雲の工房で番頭的立場となっていました。
その後、社寺彫刻のスペシャリスト岩倉理八の工房でも数年勤め上げ、井波彫刻の真骨頂ともいえる社寺彫刻、欄間の2人の名手に教えを受けたのでした。

七百十日、つまり365日の2倍ほど働いたといわれる初代白雲。
激しい自然風土に鍛えられた富山県人は、働き者が多いといわれるが、その地元の人からも驚異の目で見られるほどの働き者でした。

当時は現地の社寺を拠点に仕事をするというスタイルがあり、北海道で生活をしながら仕事をしていた時期も8年間ほどありました。その間は社寺彫刻ばかりではなく住宅欄間も手掛けており、それは、独立前に受けた2人の親方の教えが影響しているように思います。
出張での仕事の間、家に帰るのは年に1度か2度だった中で10人の子どもにも恵まれ、4人の息子を含めた(2代目白雲保之含む)6人の弟子を育て上げました。

気性が激しい反面、世話好きだった甚太郎は、北海道で絵描きや彫り師などとよく交流を持ちました。そして、一カ寺の仕事を終えると次の寺を紹介され、また次へというようにして作品を多く残していきました。

二代目白雲   三代目白雲